2017年9月10日日曜日

ルパン三世

社会の根底にあってうごめくもの。それは普段見えず、隠されたものだからこそ、危険であるかもしれない。ときに文化表現はそれを映す鏡の役割を果たすことがあるが、それが特に顕著だったのが日本では70年前後だったかもしれない。かの名高い『ルパン三世』はそうした時代に生まれた。
「アニメーションはフィーリング・メディアだ」
アニメ『ルパン三世』(1971年、全23話)の企画書はそう記す。1967年、『ルパン三世』が『 漫画アクション』に連載された同年にスタートしたアニメ企画案は紆余曲折の末、テレビ放映された。企画経緯から、杉井ギサブローと勝井千賀雄、おおすみ正秋(当時・大隅正秋)、芝山努、大塚康生らがその企画書作成に関わったと考えられる。
企画書は、作品が鏡となって映し出す時代の輪郭を見定める。ヒッピーの聖書的映画『イージーライダー』(1969年)を称揚するとともに、コーラやスナックが物神性という新しい価値観を持つと指摘する。ヒッピーのサイケデリックによる意識覚醒運動は、上部構造や観念論の不在のためむしろ物神性に重きを置く。物質文明の読み替え、ものの関係性の変革によってこそ、革命に至るのである。
企画書に戻れば、この時代にあっては「新しい主観性への渇仰」が基底にあり、そこを経て得られるのが新しい「フィーリング」であり、「第3の目」であり、「イリュージョン革命」であるとする。それがアニメーションのこれからの役割であり、『ルパン三世』の企画意図だという。そしてこれを総括し、「反逆はすでに始まっている!」と記す。
あげていけばきりがないほど、思想、風俗生活習慣のあらゆる場面で、思っても見なった新現象が続出しています。
しかし、これは<反逆>であっても、深い理論に支えられた一貫性のある<革命運動>(レボリューション)ではありません。若者立ちは理屈ではなく、直感的衝動的にこれらの方法を選び取っていったのです。『100てんランド・アニメーション⑥ ルパン三世 PART-2』双葉社
では、この反逆のフィーリングとはどのようなものか。まずアニメに最新のファッションとアイテム、ヒップな感覚を盛り込み、時代の風俗と向き合うメディアにすることだった。『ルパン三世』ではそれまでのアニメのような車らしきものは登場しない。すべてが現実に存在する車、それもブランド性とスペックの高いものばかりだ。これを企画書は「アニメーション・リアリズム」と形容する。物神性の強調は作品のアウラを香り立たせるであろう。
ファッションについては、例としてはルパンのジャケットはJUNとのタイアップが企画書に揚げられている。その最新性は、パイロットフィルムの峰不二子ルックに顕著だ。音楽も破格だ。頭脳警察、フラワー・ トラベリン・バンド、ブルース・クリエイション、岡林信康らの起用、監修には中村とうようを配置するという、はったりのような構想案だ。
人物設定も企画当初はだいぶ異なる。ルパン三世は確かにアルセーヌ・ルパンの孫だが、彼自身はそれを知らず、新宿のヒッピーとしての日常を送っている。彼はある日、ルパン帝国という巨大シンジケートの後継者に選ばれ、泥棒としての英才教育の末、ルパン三世が誕生する。次元大介は初代からの凄腕の相棒であり、峰不二子は恋人ではあるもののお目付役の役割を持つ。ルパン三世は「盗みそれ自体」の快感を楽しみ、世界中から狙われることで退屈を払拭した充実を楽しんでいる、と設定されていた。さらに石川五ェ門(作品により五ェ門、五右ェ門と表記が異なり、本論はその都度準拠)は「ニューライト」(新右翼)と表記され、当時話題をさらった三島由紀夫を念頭に置く、思想のファッション的な取り入れも見られる。
このころ商品文化、サブカルチャーの動向に時代の徴候を見出し、鋭く提言した人物に金坂健二がいる。彼もまた、物神性を経由した意識変革に言及している。
「イージー・ライダー」の新しさは、それが''作品''であるよりも、ある共同体の意志のスポンテニアスな実現と見えるところにある。金坂健二「幻覚の共和国」晶文社
そして、それは芸術や表現が社会的な認知と制度化を突破したところで初めて実現する。その意味で彼は「風俗」に大きな展望を見出す。風月堂、アートシアター新宿文化劇場、花園神社(状況劇場)、新宿駅西口地下広場、ゴールデン街、伝説のバー・ナジャのあった二丁目…。ルパン三世の原型がたむろしていた新宿は、1960年代の若者文化の中心地だった。金坂と精神的価値を共有した表現者の映像作品、大島渚の『新宿泥棒日記』、松本俊夫の『薔薇の葬列』、宮井陸郎の『時代精神の現象学』(以上3作、1969年)、中島貞夫の『にっぽん'69 セックス猟奇地域』、若松孝二の『新宿マッド』(1970年)は、そんな新宿のヒップな精神を現象として追うことでとらえようと試みた。
いいかえると、もはやサブ・カルチュアでは足りず、徹底した意識の反文化を作らねばならない。つまり体制の構造と自分をも吸い上げるメカニズムを知った上で、たんにそのエア・ポケットに入り込むのでなく、何処を突けばよいかの認知を踏まえて、かつハレンチでなければならない、と思う。前掲書

「楽器の王」オルガンとモーツァルト

1999年8月27日、大阪いずみホールでは、年二回の「パイプオルガン・シリーズ」の一環として「美しきモーツァルト」というコンサートが開かれた。モーツァルトのオルガン曲のみを特集する企画で、出演者は井上圭子さんであった。 モーツァルトのオルガン曲のみによるコンサートはめずらしく、...