2017年10月12日木曜日

「楽器の王」オルガンとモーツァルト

1999年8月27日、大阪いずみホールでは、年二回の「パイプオルガン・シリーズ」の一環として「美しきモーツァルト」というコンサートが開かれた。モーツァルトのオルガン曲のみを特集する企画で、出演者は井上圭子さんであった。
モーツァルトのオルガン曲のみによるコンサートはめずらしく、井上さんも経験がないそうである。もちろんモーツァルトの時代はクラヴィーアの時代で、モーツァルト自身は初期にはチェンバロを、のちにはフォルテピアノを使ったわけであるが、彼は実は、オルガンにも精通していた。彼自身オルガンを「楽器の王」とみなしていたし、ヴェルサイユの宮廷礼拝堂のオルガンをはじめとして、各地の由緒あるオルガンを演奏していたのである。
では、なぜモーツァルトのオルガン曲が少ないのかといえば、それは、彼のオルガンとの付き合い方が、ほとんど即興演奏であったからである。天才少年時代のコンサートにおいて、会場にオルガンがあればその即興演奏がプログラムに含まれるのが常だったし、モーツァルト自身も、オルガンによる即興演奏に自信を持っていた。ザルツブルクからウィーンに出てゆくとき、彼は皇帝ヨーゼフ二世の後援を受ける手段として、オルガンの即興演奏を考えるほどであった。
現存するモーツァルトのオルガン曲は、二つのグループに峻別される。第一のグループは、ザルツブルク時代の宮廷礼拝のために書かれた、「教会ソナタ」である。これは、礼拝の書簡章句の朗読を受けて演奏されたため、「書簡ソナタ」ども呼ばれることがある。オルガン曲といっても、オルガンのソロをふくむものはごく一部で、基本は、オルガンを通奏低音に使った弦のトリオである(管楽器の使われる曲もある)。形式はすべて、単一楽章のソナタ形式で書かれている。このグループに属する作品は、1772年(16歳)のK.67から1780年のK.336まで、17曲ある。
第二のグループは、最晩年に書かれた自動オルガンのための作品群である。これは、1790年秋(K.594)から91年春(K.608,616)にかけて三曲あり、そこには、バッハを思わせるポリフォニーと、《魔笛》を想起させる簡素な透明さを見出すことができる。
「オール・モーツァルト・プログラム」わ組むためには、この二つの分野の作品を取り入れる必要がある。そこで井上さんは、第二グループの三曲に合唱曲《アヴェ・ヴェールム・コルプス》K.618の編曲を加え、三曲の教会ソナタと組み合わせた。その結果、前半においても後半においても、第二グループのあとに第一グループを聴く、という(成立年代とは逆の)流れができあがった。
何より印象的だったのは、両グループのけわしい対比である。おなじ人がなぜこんのに違う曲を書くのか、といぶかしくなるような差違が、両者にあいだにはあるのだ。私はそこから、モーツァルトの晩年の意味を、あらためて考えさせられた。
「教会ソナタ」は、名前から連想されるような、厳粛な作品ではない。それは、世俗化されていたといわれるザルツブルク大司教の宮廷の雰囲気を反映するかのような明るい座興の音楽で、モーツァルトならではの優雅さと流麗さに満ち満ちている。少年モーツァルトは、オルガンを弾きながら、指揮をとったものと思われる。こうした「らしさ」は、晩年の第二グループの作品には、まったく見ることができない。

ミスター東大2017

1959年度(昭和34年度)東京大学第二試験《数学Ⅰ代数》第1問

文化を担う人にとって《伝統と流行》は、重要なテーマであるに違いない。「不易流行」という芭蕉の有名な言葉はこの緊張感を見事に表現しているように思う。文化人ですら流行が深刻な問題なのだから、一般人が流行に敏感なのは当然かもしれない。『傾向と対策』という一世を風靡した書名は、あらゆる現象が「客観的科学」の対象となりうるという時代の精神を反映したものであった画ゆえに、教育界の枠を超えて定着し、やがて来る「マニュアル信仰」に代表される《個的思索の不在時代》の先駆けとなった。
「流行に乗ってしまえば勝ち」ということなのかもしれないが、いつの世にも、どこの世界にも、流行に敏感に反応する人がいる。教育の世界にすら、「新しい指導法」や「新しい指導内容」を熱心に提唱する人がいる。あまりに底が浅い講論なので聞いて呆れることが多いが、そういう人の「ビジネス」と見れば理解できなくもない。しかし教育の世界くらいは、《文化の表層の流れにとらわれない永遠不易の理想》と、《いかに輝ける伝統にも安んぜず、いかなる陳腐も嫌う進取の精神》がしっかりと共存していてほしいと思う。
そのような気持ちから、今回は次の問題を取り上げよう。

平面上の点(x,y)に\usepackage{amsmath} \[ \begin{cases} x'=2x+y \\ y'=3x+2y \end{cases} \]によって定まる点(x',y')を対応させる。
(i) 四点(0,0),(a,0).(0,b),(a,b)を頂点とする長方形は、この対応によってどのような図形にうつるか。(図を描いて説明せよ。ただしa>0,b>0とする。)
(ii) その図の面積ともとの長方形の面積の比を求めよ。

少しでも受験勉強に取り組んでいる高校生がこれを見たら「平面上の点の変換の問題」、2000年頃の学習指導要領で数学Cを勉強している人なら「行列の表す1次変換の問題」と判定できるであろう。やや年配の方(1980~90年代に高校生であった人)で、やや進んだ受験勉強に取り組んでいた人がいらっしゃれば、「行列式の幾何学的性質を問う問題」と見抜くこともできるであろう。こんな易しい問題が本当に東大で出題されたのか?と疑問にさえ思われるのではないだろうか。これはなんと1959年度(昭和34年度、ということは、すでに還暦を過ぎた人ですら、ようやく小学5年生を終えようとしていたころである!)の第二次試験《数学Ⅰ代数》の第1問なのである(「四点」のような古めかしい表現が登場しているのはこのためである)。つまり、東大では、戦後のどさくさの混乱がようやく少し一段落し、「力道山」から「長嶋茂雄」へと、スポーツのヒーローに国民が沸いていたこの時代に、それから約20年後に、《数学教育の現代化》運動の中、鳴り物入りで入ってくる「行列の表す1次変換」の問題が、当時の標準的な学習単元を遥かに超えて取り上げられたという事実に注目してほしいのである。
私から見ると、誠に意外なことなのであるが、最近の学校では教科書を早く終わらせる「前倒し」という指導法が「流行」しているようである。若い諸君には、教科書を学校の先生に先立って自発的に読み進めるという勉強法は熱烈に推薦したいが、それは自らの力で数学書を読み解くという数学の最も基本的な勉強法の手近な実践として意味があるからであって、概念的、理論的な理解を犠牲してまで、他人より早く「進んだ」数学的知識を詰め込むことは、より適切な表現が見つからないので困るが、一種の耳年増の養成にこそなれ、本格的な受験勉強には「百害あって一利なし」である。
低学年において指導要領上の基礎知識を手早く叩き込んでおいて、過去の入試問題の演習時間を高学年で確保しようということらしいのだが、その種の後ろ向きな努力は、実際は東大にはななか通用しにくい。そのわけは、東大が、「集合と
にせよ、今回取り上げものにせよ、これらにはっきりと見られるように、きちんとした基礎をしっかり理解している受験生なら、ちょっと考えるだけですぐに解ける、しかし見掛けだけは過去に例のない新鮮な問題を文部科学省の指導要領を《無視》して(この表現がきつすぎるなら、《拡大解釈》して)出題してきているからである。
伝統や実績のない自称進学校がすぐに売りになる安易な対策に走るのは、教員と生徒の置かれた状況の点から同情する面もあるが、本気で東大を目指す若者は、浮き足だった「受験対策」でない、いかなる新奇な問題にも自由自在に対応できる真の基礎力をつける本格的な《受験勉強》を進めたい。基礎概念の数学的意味を含む精密な理解を根ざし、各定理を繋ぐ数学の考え方の流れの理解を通じて、単なる問題解法を超えた、数学そのものを楽しむような勉強である。
その例として最適かどうかはともかく、上に引用した問題であるが、行列や1次変換などの知識が全くない当時の受験生に対しても期待し得る解答の方針の1つを紹介してみよう。
「x_0を0\leq x_0\lep aを満たす定数として、0\leq t\leq bを動く変数tを用いて(x_0,t)と表される動点(これはy軸平行の線分を描く)の移る先の点(2x_0+t,3x_0+2t)の描く図形(これは簡単な計算により、線分y=2x-x_0,2x_0\leq x\lep 2x_0+bであることが分かる。この線分の両端点の座標を出すのも後の議論の展開に悪くないだろう)をまず求め、次にその図形がx_0の変化について掃過する(移動しながら描き出す)図形として平行四辺形を求める」
というものである。
今日の目から見れば、垢抜けた解法とは見えないかもしれない。しかし、解析幾何の基本的な知識だけで十分に使いこなせる、適用範囲の広い方法である。最近は、なまじ「行列と1次変換」という単元が入ってきたので、このような古典的な汎用的解法はかえって扱われにくくなっているのが残念である、
実際、今日では、
\[ 与えられた式 \left\{ \begin{array}{ll} x'=2x+y \\ y'=3x+2y \end{array} \right. \]
\[ を \left\{ \begin{array}{ll} x=2x'-y'1 \\ y'=-3x+2y' \end{array} \right. \]と変形し、これを不等式0\leq a,0\leq bに代入してx',y'の条件を導く」
といった解法が、「誰にでもすぐに使える」ということなので、もてはやされるようである。確かにこの方法は、表向き「頭を使わない」ので、分かっていない人でも答えが出せるという点で確かに「魅力的」である。(実際、最初の解法が理解できない人でもこの方法なら答えに達することができよう。)
しかし、「図を描いて説明せよ」という解答上の指示までつけて出題された先の問題に対し、このような今風の答案が存在したとして、それが実際には、どのように評価されたか、いまは天国にいらっしゃるであろう教授たちに伺ってみたいものである。東大では最終結果の一致不一致より、むしろ途中の論理の展開に重点が置かれるというだけになお一層である。4点(0,0),(a,0),(a,b),(0,b)の移る先の点を結んでできる四角形の周および内部であると、直ちに断定する。素朴すぎる議論でも「正解」が導かれるが、もちろん、これでは0点に限りなく近い採点になったことだろう。
なお、これを含め!後半に述べた「解法』にもそれぞれを支える数学的な根拠があるから、これを単なる小賢しい解法の技巧として覚えるのは情けないが、広い数学的な理論としてしっかりマスターするのは素敵なことである。

2017年9月10日日曜日

ルパン三世

社会の根底にあってうごめくもの。それは普段見えず、隠されたものだからこそ、危険であるかもしれない。ときに文化表現はそれを映す鏡の役割を果たすことがあるが、それが特に顕著だったのが日本では70年前後だったかもしれない。かの名高い『ルパン三世』はそうした時代に生まれた。
「アニメーションはフィーリング・メディアだ」
アニメ『ルパン三世』(1971年、全23話)の企画書はそう記す。1967年、『ルパン三世』が『 漫画アクション』に連載された同年にスタートしたアニメ企画案は紆余曲折の末、テレビ放映された。企画経緯から、杉井ギサブローと勝井千賀雄、おおすみ正秋(当時・大隅正秋)、芝山努、大塚康生らがその企画書作成に関わったと考えられる。
企画書は、作品が鏡となって映し出す時代の輪郭を見定める。ヒッピーの聖書的映画『イージーライダー』(1969年)を称揚するとともに、コーラやスナックが物神性という新しい価値観を持つと指摘する。ヒッピーのサイケデリックによる意識覚醒運動は、上部構造や観念論の不在のためむしろ物神性に重きを置く。物質文明の読み替え、ものの関係性の変革によってこそ、革命に至るのである。
企画書に戻れば、この時代にあっては「新しい主観性への渇仰」が基底にあり、そこを経て得られるのが新しい「フィーリング」であり、「第3の目」であり、「イリュージョン革命」であるとする。それがアニメーションのこれからの役割であり、『ルパン三世』の企画意図だという。そしてこれを総括し、「反逆はすでに始まっている!」と記す。
あげていけばきりがないほど、思想、風俗生活習慣のあらゆる場面で、思っても見なった新現象が続出しています。
しかし、これは<反逆>であっても、深い理論に支えられた一貫性のある<革命運動>(レボリューション)ではありません。若者立ちは理屈ではなく、直感的衝動的にこれらの方法を選び取っていったのです。『100てんランド・アニメーション⑥ ルパン三世 PART-2』双葉社
では、この反逆のフィーリングとはどのようなものか。まずアニメに最新のファッションとアイテム、ヒップな感覚を盛り込み、時代の風俗と向き合うメディアにすることだった。『ルパン三世』ではそれまでのアニメのような車らしきものは登場しない。すべてが現実に存在する車、それもブランド性とスペックの高いものばかりだ。これを企画書は「アニメーション・リアリズム」と形容する。物神性の強調は作品のアウラを香り立たせるであろう。
ファッションについては、例としてはルパンのジャケットはJUNとのタイアップが企画書に揚げられている。その最新性は、パイロットフィルムの峰不二子ルックに顕著だ。音楽も破格だ。頭脳警察、フラワー・ トラベリン・バンド、ブルース・クリエイション、岡林信康らの起用、監修には中村とうようを配置するという、はったりのような構想案だ。
人物設定も企画当初はだいぶ異なる。ルパン三世は確かにアルセーヌ・ルパンの孫だが、彼自身はそれを知らず、新宿のヒッピーとしての日常を送っている。彼はある日、ルパン帝国という巨大シンジケートの後継者に選ばれ、泥棒としての英才教育の末、ルパン三世が誕生する。次元大介は初代からの凄腕の相棒であり、峰不二子は恋人ではあるもののお目付役の役割を持つ。ルパン三世は「盗みそれ自体」の快感を楽しみ、世界中から狙われることで退屈を払拭した充実を楽しんでいる、と設定されていた。さらに石川五ェ門(作品により五ェ門、五右ェ門と表記が異なり、本論はその都度準拠)は「ニューライト」(新右翼)と表記され、当時話題をさらった三島由紀夫を念頭に置く、思想のファッション的な取り入れも見られる。
このころ商品文化、サブカルチャーの動向に時代の徴候を見出し、鋭く提言した人物に金坂健二がいる。彼もまた、物神性を経由した意識変革に言及している。
「イージー・ライダー」の新しさは、それが''作品''であるよりも、ある共同体の意志のスポンテニアスな実現と見えるところにある。金坂健二「幻覚の共和国」晶文社
そして、それは芸術や表現が社会的な認知と制度化を突破したところで初めて実現する。その意味で彼は「風俗」に大きな展望を見出す。風月堂、アートシアター新宿文化劇場、花園神社(状況劇場)、新宿駅西口地下広場、ゴールデン街、伝説のバー・ナジャのあった二丁目…。ルパン三世の原型がたむろしていた新宿は、1960年代の若者文化の中心地だった。金坂と精神的価値を共有した表現者の映像作品、大島渚の『新宿泥棒日記』、松本俊夫の『薔薇の葬列』、宮井陸郎の『時代精神の現象学』(以上3作、1969年)、中島貞夫の『にっぽん'69 セックス猟奇地域』、若松孝二の『新宿マッド』(1970年)は、そんな新宿のヒップな精神を現象として追うことでとらえようと試みた。
いいかえると、もはやサブ・カルチュアでは足りず、徹底した意識の反文化を作らねばならない。つまり体制の構造と自分をも吸い上げるメカニズムを知った上で、たんにそのエア・ポケットに入り込むのでなく、何処を突けばよいかの認知を踏まえて、かつハレンチでなければならない、と思う。前掲書

1976年度(昭和51年度)に東京大学理科第4問、文科第3問

ある中学生用の文部科学省の検定を通った教科書(!)の「正の数,負の数」の単元に、次のような簡単な計算題とそれに対する「模範解答」(!)が載っているということ、外国人の指摘で知った。
+17-(-25)+3+(-14)=-17+25+3-14
=(25+3)-(17+14)
=28-31
=-3
この教科書の記述は、おそらく、それぞれの変形が、「まず括弧をはずしましょう」「次に足し算部分と引き算部分に分けて括弧で括りましょう」「括弧内の足し算を計算しましょう」「正の2数の引き算を実行しましょう」という指導がなされることを期待しているのではないかと想像するのだが、括弧を「はずす」と「括る」の逆計算を最初に強いる教育上の無理もさることながら、「正,負の符号」や加法(足し算,引き算)の数学的な定義や演算規則の演繹を考慮すると、上の「解答」は「模範的」とは程遠いといわなければならない。
最もまずいのは、冒頭の-17が2行目の変形でいきなり-に続く括弧に入れられていることに象徴されるように、-記号が「負の数の符号」と「引き算の記号」の2つの意味を混同して使われていることである。この混同は、《やっても構わない》ことを証明することができるので、十分理論に熟達したら、細かいことにこだわらずに処理して構わないのであるが、その理論的な証明は、少なくとも正の数、負の数を学ぶ中1の初学者にはかなり難しい。同様に、記号+も、「正の符号」と「足し算の記号」としばしば混同されるが、「正の符号」としては、省いても差し支えがないという理由で、上の模範解答では省略されているのであろう。高校生には少し難しすぎるが、《現代数学的に自然数から整数を構成する》ときには、厳格に区別されるものである。
そこまでは厳密に運ばないとしても、上と同じ変形を、中学生レベルでも納得できる程度にホンの少しきちんと表現するだけで、次のようにすっきりする。
-17-(-25)+3+(-14)
=(-17)+(+25)+(+3)+(-14) (引き算を足し算で表現)
=\{(+25)+(+3)\}+\{(-17)+(-14)\} (足し算についての交換法則の適用) =(+28)+(-31) (同符号の2数の加法計算)
=-(31-28) (異符号の2数の加法計算)
=-3 (引き算計算)
いうまでもなく、ここで、3個以上の数の加法を複雑な括弧を省いて数を述べて書いてよいというところで、加法についての結合法則が使われている。
しかし、最近の日本では、検定教科書すら上のようなものを模範解答としているということは、「よくできる」中学生にすら、下のような厳密な理解が要求されることはない、ということである。国民全員に対する教育という観点からすれば、理論的にしっかりと理解できなくても、正確に計算できさえすればよいという考え方もありうる。しかし、論理はさておき、素早く答えに達するのを模範とするようで、いかにも「結果さえ出ればそれでOK」という現代の風潮を象徴しているようで哀しい。才能ある若者も存在するであろうから、そういう人にはホンモノに近いものを与えたい。
1976年度(昭和51年度)に東京大学理科第4問、文科第3問の旧課程用として出題された問題を取り上げよう。
xy平面上に3つの円A,B,Cがあって、それぞれ
A:x^2+y^2=9,B:(x-4)^2+(y-3)^2=4 C:(x-5)^2+(y+3)^2=1
で表される。この平面上の点Pから円A,B,Cに接線がひけるとき、Pからそれらの接線までの距離をそれぞれ\alpha(P),\beta(P),\gamma(P)とする。このとき、\alpha(P)^2+\beta(P)^2+\gamma(P)^2=99となる点Pの全体が作る曲線を図示し、その長さを求めよ。
一般に、「方程式(x-a)^2+(y-b)^2=r^2(a,b,rは実数の定数でr>0)が点A(a,b)を中心とする半径rの円を表す」というのは、座標平面上の点集合\{(x,y)|(x-a)^2+(y-b)^2=r^2\}がこの円であるという意味である。集合を表す記号としては、\{(u,v)|(u-a)^2+(v-b)^2=r^2\}などと書いても全く同じものであるが、高等数学では、分かりやすさのために(?)座標平面とxy平面とが同一視されて指導されているようだ。
さて、この円Cに対し、その外部にある点Pから引いた接線を考えるとき、高校レベルではしばしばP(x,y)と表現されることが多い。しかしながら、このx,yと上の方程式に現れるx,yとを混同するとひどいことになるので、以下ではとりあえず、P(X,Y)としっかり区別することにしよう。この点Pから円に引いた接線の接点の1つをQとおくと、接点において接線と半径が直交する円の接線の性質にピュタゴラースの定理を適用して得られる関係
PQ^2+AQ^2=PA^2
から、接線PQの長さの平方は
PQ^2=PA^2-AQ^2=(X-a)^2+(Y-b)^2-r^2
と表される。この右辺が正にあることが、点Pから円Cに接線を引くことができるための条件であり、それは点Pが円Cの外部にあることと同値である。
この結果は、Pの座標を敢えて混同して(x,y)で表すと、
PQ^2=(x-a)^2+(y-b)^2-r^2
となり、円Cの方程式の右辺を左辺に移項したときの左辺そのものになる。普通の高校生なら、このようにいわれると奇妙な気分になるに違いないと思うのであるが、少し考えれば必然性があることに気づく。すなわち、円外の点O(x,y)に対しては、(x-a)^2+(y-b)^2-r^2が円Cに引いた接線の長さの平方、方冪の定理によって言い換えると、Pから円に引いた任意の割線の円との交点Q_1,Q_2を用いて表される点Pの円Cに対する冪と呼ばれる量PQ_1\cdot OQ_2を表し、他方、円Cとは、この立場に立ってみれば
(x-a)^2+(y-b)^2-r^2=0 すなわち、円Cに引いた接線の長さが0になるような点(x,y)の全体として捉えることができる、ということである。
以上のことを知っていれば、本問は、3円A,B,Cに対する冪の総和が定数99となる点の軌跡を求めるという主題の問題であることがすぐに分かるが、「知っていると得をする」と思われる知識は、ここでは全く必要がない。つまり、点Pから与えられた3つの円A,B,Cに接線が引けるのは、
点Pが3つの円の外部にある\cdots(\ast)
ときであり、そのとき点Pの座標(X,Y)とおくと、
\alpha(P)^2=X^2+Y^2-9,\beta(P)^2=(X-4)^2+(Y-3)^2-4,
\gamma(P)^2=(X-5)^2+(Y+3)^2-1
となる。したがって、
\alpha(P)^2+\beta(P)^2+\gamma(P)^2=99
とは
(X^2+Y^2-9)+\{(X-4)^2+(Y-3)^2-4\}+\{(X-5)^2+(Y+3)^2-1\}=99
すなわち、X^2+Y^2-6X-18=0
となることである。よって、このような点(X,Y)全体の集合\{(X,Y)|(X-3)^2+Y^2=27\}、すなわち「xy平面上、方程式(x-3)^2+y^2=27の表す円」Dの弧のうち、条件(\ast)を考慮した部分が求められるということになる。円Dは円Aと(-\frac{3}{2}\pm\frac{3\sqrt{3}}{2})の2点で交わり、円B,Cは円Dの内部に含まれるので、円Dのうち円Aに食い込んでしまうこの2点を両端とする中心角\frac{\pi}\3}の部分を除いた優弧が求められるもので、その長さは\sqrt{27}\times\frac{5\pi}{3}=5\sqrt{3\pi}である。
ところで、この手の問題では、最初は(X,Y)を使っていても、それが最後に(x,y)と書き換えることになるなら、最初から(x,y)を使った方が得だといわんばかりの解答が模範解答として提示されることが多いように思う。しかし、《論理》よりは《経済》,《エレガンス》よりは《損得》を優先することは、高校生な全員にとっての「模範」とするのは少し寂しいように思うのだが、どうだろう。

ミス東大コンテスト2017

Jean - Pierre Serre Cours d'arithmétique

数学科に進学すると、代数では群・環・体、幾何では距離空間や位相空間といった抽象的概念について学び、解析では解析関数などを学ぶ、数論というと、整数を扱うので、代数をイメージする人も多いのではないかと思うが、実際には、使えるもは何でも使おうという感じで、代数、幾何、解析の様々な理論を用いて研究されている。本書は、上で述べたような抽象概念や理論を一通り学び終えたところで、実際にそれが数論でどのように生かされているかを知るのにとても良い本である。扱っているテーマはp進数、2次形式のHasse原理、ディリクレL関数と算術級数定理、保型形式、\theta関数と多いが、非常に簡潔かつ明快に解説されていて分かりやすい。これらは、いずれも現代の整数論の研究に繋がる重要なテーマについても、それについて学びたい人が最初に読む本としてもお薦めである。
この本の前半は、p進数とその最初の興味深い応用例である2次形式のHasse原理(局所・大域原理)に割かれている。p進数は、数論以外の人にはあまりなじみがない概念ではないかと思うが、数論においては、非常に基本的かつ重要な概念で至る所に現れる。体系的にp進数を扱うとなると、より一般に局所体という枠組みでとらえることにより、敷居が高くなってしまうが、本書ではp進数のみに限定し、その代わりにp進数の応用に焦点をあてることにより、p進数に親しみやすくしている。
有理型関数は、複素数aの周りでLaurent級数\Sigma_n\gg-\infty a_n(z-a)^nに展開することにより、aの周りでの振る舞いを調べられる、p進数は、有理数に対して素数pの「周り」で「Laurent展開」の類似を考え、有理数や有理数係数の方程式の素数pでの振る舞いを研究しようとして出てきた概念で、19世紀の終わり頃ヘンゼル(K.Hensel)により導入された。実際Laurent級数に似て、p進数は、\Sigma_n\gg-\infty a_np^n
(a_nは0以上p-1以下の整数)という無限和の形でただ一通りに表される。すべてのLaurent級数が\mathbb{C}\cup\{\infty \}上の有理型関数を定めるわけではないことと類似して、有理数ではないp進数はも無数にある。
さて上に書いた無限級数を素朴に実数の世界で考えると明らかに収束せず意味を持たない。p進数の世界では数の「大きさ」が実数の世界とは全く違っていて、nが大きくなるほどp^nは小さくなっている。より具体的にいうと、有理数rはr=\pm\frac{a}{b} p^m(a,bはpで割りきれない正整数、mは整数)の形にかけるが、p進数の世界でのrの(p進数) 絶対値|r|_pはp^-m
となっている。例えば3進数の世界では1+3+3^2+3^3+\cdots+3^nと-\frac{1}{2}の差\frac{3^n+1}{2}の3進絶対値は3^-n-1
であり、従って無限和\Sigma_n\geq 0 3^nは-\frac{1}{2}となる。
このようにp進数の世界は一見奇妙ではあるが、二つのp進数a,bの距離を|a-b|_pと定めると、これは位相空間論で学ぶ距離の公理をみたし、従って距離空間の一般論が適用できる世界となっている。実数と同様に、p進数でもCauchy列はかならず収束する。このため方程式の解を逐次近似で求めることができる。例えば、実数値関数の零点を逐次的に求めるニュートン法は、p進数でも用いることができる。このことは、代数方程式のp進数解を調べることは、有理数解よりもやさしい。
もし実数解あるいはある素数pでのp進数解がないことが分かれば、有理数解がないことが分かる。この逆が成り立つ時Hasse原理が成り立つと言われ、2次形式の零点については成り立つことが本書で紹介されている。p進数での2次形式の零点の存在は平方剰余記号を用いて判定でき、その帰結として、有理数での零点の存在の判定法が得られる。応用としては、例えばすべての正の整数は4個以下の平方数の和でかけるというLagrangeの定理の証明が与えられている。Hasse原理は一般には成り立たない。つまり実数解、p進数解はあるが、有理数解はないことがある。この種のずれは数論の興味深い研究対象の一つとなっている。

2017年9月9日土曜日

涼宮ハルヒの憂鬱

アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』は「テクスト」である原作が万華鏡のような多面性を持つことを示す。そのアプローチのひとつが、第1期の変則的なエピソード配列(シャフルと呼ばれる)だ。放映された順番は、時系列、因果関係とは関係ないものだった。それは原作を読み込んであることをなかば前提としたファン向け、少なくともながらではない積極的な受容層向けを意図していた。第2期では、時系列、因果関係に沿ったものに放送し直され、さらに新エピソードが数話付け加えられた。ちなみに第1期は監督が石原立也、シリーズ演出が山本寛、第2期は総監督が石原立也、監督が武本泰弘と、スタッフは若干異なる。
そもそも第1期第1話は「朝比奈ミクルの冒険 Episode 00」だった。これはSOS団が文化祭用に制作した同名映画を30分枠をほぼ使って放映したもの。両サイドに黒枠があり、これが虚構の映画だと明示される。全編に自主映画らしさを演出するこだわりがある。予算の点で特撮を使えないがための、ジャンプ時の不自然なカットの切り替え。ややぎこちない3回反復クローズアップ。光線などの映像効果とBGMの打ち込み音、などだ。だがこれは単なるお遊びではなく、作品そのものを暗示する大きな意味を持つ。
試写会でこれを見つめるハルヒは、映像の監督であると同時に世界を創造し、見守る役割を担っている。作品の出来が悪ければ、映像=世界はリセットされる。暗闇の試写室の中、唯一団員は世界の中で選ばれた存在として彼女の意向を見守る立場だ。
映画はSF仕立ての青春学園ドラマで、朝比奈みくるは未来人ミクルとして、長門有希は宇宙人ユキ、小泉一樹は超能力者イツキとして登場。キョンはナレーションと物語の立ち位置はそのみ。かれらの会話も非常に暗示的だ。
ユキ「今言えるのはあなたの選択肢はふたつあるということだ。私とともに宇宙をあるべき姿へと進行させるか、彼女に味方して未来の可能性を摘み取るか」
イツキ「…ですが今の僕には決定権がない。まだ、結論を出すには早すぎると僕は考えます。保留ってことで、今は手を打ちませんか。…あなたたちがすべての真相を語ってくれらなら、別かもしれませんが」
一方、キョンはありふれたラブコメ的なシチュエーションにはこう突っ込む。
「あえて言おう。沸き上がる感情を押し殺して、深く考えないことにしたい。我々の予想範囲内で動く登場人物に、人間的なリアリティなどあるわけがないからだ」
これは自主映画のキャラクターだけでなく、ハルヒが物語世界の中で創造した人物たち、さらに小説/アニメという虚構の物語を指すメタ視点を持つ。
「朝比奈ミクルの冒険 Episode  00」は、『涼宮ハルヒの溜息』という自主映画制作エピソードのいわば成果物で、第2期では5エピソードかけて本筋が展開された後、放映された。こちらのほうが明らかに親切ではある。
他にも、2話連続エピソードの「孤島症候群」は夏の孤島でのリゾートが殺人事件に急展する物語だが、第1期ではそのあいだに「ミステリックサイン」が挿入され、話の流れを見事に断ち切っている。この構想は、企画制作会議のさい、原作者の谷川流本人が提案したことから発している。
これから時系列がゴチャゴチャになるのに第1話をマトモにしても、これはかえって不親切だろうと。最初から''メチャクチャになる''といたいことを明示しておいた方がいいなと、少なくとも僕は考えました。谷川流コメント『オフィシャルファンクラブ 涼宮ハルヒの公式』角川書店
もともと、原作者は時間改変を扱う小説らしく、時系列で執筆されたわけではない。作品世界の時間軸とは別のところに、物事の原因と結果がある側面もある。さらに、アニメは作中で示される時間概念とも深く関わっている。
朝比奈「時間は連続性のある流れのようなものではなく、その時間ごとのもの。アニメーションを想像してみて。あれってまるで動いているように見えるけど、本来は時間と時間との間に断絶があるの。それは限りなくゼロに近い断絶だけど。だから時間移動は積み重なった時間平面を三次元方向に移動すること。未来から来た私は、この時代の時間平面上ではぱらぱらマンガの途中に描かれた余計な絵みたいなもの」 第三話
ここでは時間の連続性は否定される。時間が不連続であるなら、シャッフルのように(一見だが)不規則に並べてもいい。第1期のコンセプトはここにあるのだろう。また長門有希の行動が示すように作品中の世界とは情報環境と同義であり、彼女は情報改変によって世界の再創造もできる存在だ。いわば情報としてのデータベースをシャッフルしたのが第1期『ハルヒ』とも言える。
レフ・マノヴィッチは、映画をナラティヴとデータベースのふたつの要素から構成されていると指摘した。『ハルヒ』第1期とは映画の持つデータベース的要素(情報性)を最大限活かしたものである。そこには時間軸に沿ったナラティヴはないが、意味は確かにある。
キョンとハルヒの合わせ鏡の構造が示すように、世界は解釈し、読み込まれ、意味を与えられる巨大な「テクスト」(データベース)である。『涼宮ハルヒの憂鬱』の世界とはそのような意味を豊富に湛えた存在、重層体でもある。それは自明のものではなく、読み込みという働きかけを必要とする。
本作は時系列に添ったナラティヴではないが、時系列に錯綜した中、叙述というナラティヴのかたちでキョンに語られていく。それは、現代における情報が過剰であるがゆうの進退自由の「永遠の現在」への意味の付与である。
時間平面は蓄層され、あらかじめ決定されているかに見えるが、意志を持つ人間である限り、現在と未来を改変する力を発揮する。それは超常能力ではなく、むしろ平凡人であるがゆえのキョンの行動だ。
「我々の予想範囲内で動く登場人物に、人間的なリアリティなどあるわけがない」
本作は記号化されたキャラクターで満ち満ちているが、「自由意志」が大きな意味を持ち、物語を動かしていく。キャラクターに「人間的なリアリティ」を与えるものとは、意志を持って何か(本作では意味の欠如)に抗おうとする、振る舞いであると思う。

涼宮ハルヒの憂鬱

話者、視点の複数性。それがラノベ(ライトノベル)の代表的な名作、『涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川流・原作)を筆頭とする「涼宮ハルヒシリーズ」の特長だ。本作は、2006年、2009年にテレビシリーズとして(全28話)、2010年には映画『涼宮ハルヒの消失』として、アニメ化された(制作は京都アニメーション)。本作は学生を中心として社会が排除されたSF的な世界観からセカイ系、また少女を中心とした日常(学園生活)の語のため空虚系(日常系)とも分類される。
『ハルヒ』のアニメはキョンという少年による一人称の叙述の形式を取る。これは原作を強襲したもので、ラノベでは多用される。『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』もその例だが、アニメでは異なる。一人称の多用はふたつの理由がある。まず、読者に年齢等で近い存在の主人公視点が共感を醸成しやすいこと。次にセカイ系で述べたように、世界が主人公の自意識と補完し合うことと関わる。作品が成功するなら、主人公視点は読者の目線と一体化する。その視点は世界をすみずみまで覆い、その主要構成物である少女たちと混じり合う。
『ハルヒ』がこれらと異なるのは、その物語構造に由来する。
「ただの人間には、興味がありません。このなかに、宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、私のところに来なさい」『涼宮ハルヒの憂鬱』第1話
高校1年の始業のさい、クラスの自己紹介で涼宮ハルヒはこう宣言した。それは自他に対する平凡なものへの拒否だった。キョンもまるで相手にはされなかったが、とあるきっかけから彼女と親密になる。それは彼のなにげない発言が、彼女にとって物事を整理し、検討する論点を与えたことによる。
ハルヒは嫌がるキョンとともにSOS団(世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団)を同好会として無理矢理立ち上げるが、退屈さを吹き飛ばす面白いことがしたいだけなので、確たる目的はない。思いつきで3人ほど強引に引き込む。その3人は、無口のメガネ女子の長門有希、ドジッ子で萌え系の朝比奈みくる、つかみ所のなさと完璧な振る舞いが印象に残る美少年・小泉一樹と、それぞれバラエティに富み、キャラクターの記号配分のバランスは完璧だ。ここまではありふれた学園ドラマだが、3人の正体が宇宙人 (対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース)、未来人、超能力者であることがわかってくると、物語はSFのトーンが前面に出てくる。
SF風味の学園ドタバタコメディというと、まず思い浮かぶのは『うる星やつら』だ。しかし『うる星やつら』はステップスティック調が基本トーンであるだけに、全体がハレ=非日常の物語世界だ。これに対し、アニメ『ハルヒ』の第1話の冒頭はモノトーン調の暗色で始まり、キョンの生活の無味乾燥への諦念に満ちたモノローグで始まる。それは幼少時代の回想だ。
「…アニメ的、特撮的、漫画的ヒーローたちがこの世に存在しないのだということに気付いたのは相当後になってからだった。いや、本当は気付いていたのだろう。ただ、気付かさたくなかっただけなのだ」
キョンの視点により語られていく本作は、ハルヒの先の爆弾宣言から彩りを持つ鮮やかで輝いたものに変貌していく。「ミステリックサイン」のような情報生命体の暴走による失踪事件のSFミステリーがある一方、「ライブアライブ」や「サムディ イン ザ レイン 」のような青春の酸味と寂寞さが加味されたドラマもある。演出は(小説が題材というせいもあるが)、顔や身体が似顔絵の崩れたタッチに変貌、画面にびっくりマークが出現、あるいは飛び上がるような、マンガ的な記号で緩急を付ける演出方法は採られない。その意味で写実性が強い。
キョンのモノローグで物語が進行するという話法を活かし、カメラはしばしば彼の視点を感じさせる広角的なバースのゆがみとアップが使用される。画面の変化と動きの多さは、キャラクターの感情を伝える心理のドラマであることも強調する。一方、被写界深度を浅く取ることによる、手前あるいは奥の事物のピンぼけも散見される。それは、キョンの視点、観察では窺い知れない何かが潜むことを示唆する。その意味で、ドラマ空間には奥行きもまた感じさせる。
SOS団に異能の存在が集まった理由は何だろうか。それはなかばかれらの意志でもあり、またハルヒの「意志」でもある。「おそらく彼女には自分の都合のいいように周囲の環境情報を操作する力がある」(長門)、「過去への道を閉ざしたのは涼宮さんなのは確か」(朝比奈)、「実はこの世界はある存在が見ている夢のようなものなのではないか」(小泉)(いずれも第3話)。3人は、ハルヒが環境と因果律に干渉でき、あるいは世界そのものを自由に創造/改変できる存在ではないかと指摘する。だが少なくともそれは推測であり、正確な実像は物語の中で呈示されない(なかった)。長門は情報統合思念体の自律進化の可能性を探る鍵として、朝比奈は時間変動の実情を見定めるため、小泉は再創造で世界が消失しないため、ハルヒを探り、見守る役割を担っている。
『ハルヒ』という物語は、ナレーターであるキョンがハルヒという存在を通じて、世界の驚異を体験し、その摂理の一端を知る探索の面を持つ。それはきわめて平凡な存在(今のところ)であるキョンだからこそ、できうることだ。
では、世界はハルヒにとってどのようなものだろうか。彼女は、自身が世界を創造/干渉できる存在との自覚はゼロである。彼女は無自覚に自身の周囲に、宇宙人、未来人、超能力者を集める。
だがそれに気づかないため退屈感に焦燥的に苛まれ、飽くことのない探求と騒動を巻き起こしていく。そこには非日常的で超常的な現象もあり、あるいは彼女とキョンをめぐる超常的な争闘がある。しかし、彼女はそれに決して気付くことはない。その中で彼女は非日常ではなく、むしろ日常に潜むものの尊さに気付かされていく。それはキョンというかけがえのない存在であり、3人の部員という友人であり、あるいは「ライブアライブ」でひょんなことから「らしくもない」手助けした人の感謝の真心であったりする。それは、宇宙人、未来人、超能力者という彼女が願望して引き寄せた/創造した存在でないがゆえに他者であり、自身(の延長、接続物)でないものだからこそ意味がある。つまり、本作は彼女が他者を探す出会いの物語でもある。付言するなら、無意識下の非日常、非常を抑制して顕在意識を正常化する物語とも言える。
これに対し、キョンにとってこの物語は自らが捨ててしまったものとの出会いでもある。それは「宇宙人や未来人や幽霊や妖怪や超能力者や悪の組織」に代表される憧れや可能性である。それを体現するのが、自らの思うことを果断速効で行動に移すハルヒだ。
つまり、本作はキョンとハルヒの合わせ鏡の構造を持っている。世界は、キョンとハルヒのふたりによって見られ、探索され、解釈され、理解される。そしてその求める方向性は異なるものの、互いであることは共通する。叙述はキョンによるが、プロットはハルヒによって用意される。その中で世界はキョンとハルヒの複数の視点から読み込まれ、語られていく。その豊かさを本作は持っている。
それは原作が小説であるように、世界そのものが読まれることを待つ一冊の本であるからと言えるかもしれない。

「楽器の王」オルガンとモーツァルト

1999年8月27日、大阪いずみホールでは、年二回の「パイプオルガン・シリーズ」の一環として「美しきモーツァルト」というコンサートが開かれた。モーツァルトのオルガン曲のみを特集する企画で、出演者は井上圭子さんであった。 モーツァルトのオルガン曲のみによるコンサートはめずらしく、...