2017年9月9日土曜日

涼宮ハルヒの憂鬱

アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』は「テクスト」である原作が万華鏡のような多面性を持つことを示す。そのアプローチのひとつが、第1期の変則的なエピソード配列(シャフルと呼ばれる)だ。放映された順番は、時系列、因果関係とは関係ないものだった。それは原作を読み込んであることをなかば前提としたファン向け、少なくともながらではない積極的な受容層向けを意図していた。第2期では、時系列、因果関係に沿ったものに放送し直され、さらに新エピソードが数話付け加えられた。ちなみに第1期は監督が石原立也、シリーズ演出が山本寛、第2期は総監督が石原立也、監督が武本泰弘と、スタッフは若干異なる。
そもそも第1期第1話は「朝比奈ミクルの冒険 Episode 00」だった。これはSOS団が文化祭用に制作した同名映画を30分枠をほぼ使って放映したもの。両サイドに黒枠があり、これが虚構の映画だと明示される。全編に自主映画らしさを演出するこだわりがある。予算の点で特撮を使えないがための、ジャンプ時の不自然なカットの切り替え。ややぎこちない3回反復クローズアップ。光線などの映像効果とBGMの打ち込み音、などだ。だがこれは単なるお遊びではなく、作品そのものを暗示する大きな意味を持つ。
試写会でこれを見つめるハルヒは、映像の監督であると同時に世界を創造し、見守る役割を担っている。作品の出来が悪ければ、映像=世界はリセットされる。暗闇の試写室の中、唯一団員は世界の中で選ばれた存在として彼女の意向を見守る立場だ。
映画はSF仕立ての青春学園ドラマで、朝比奈みくるは未来人ミクルとして、長門有希は宇宙人ユキ、小泉一樹は超能力者イツキとして登場。キョンはナレーションと物語の立ち位置はそのみ。かれらの会話も非常に暗示的だ。
ユキ「今言えるのはあなたの選択肢はふたつあるということだ。私とともに宇宙をあるべき姿へと進行させるか、彼女に味方して未来の可能性を摘み取るか」
イツキ「…ですが今の僕には決定権がない。まだ、結論を出すには早すぎると僕は考えます。保留ってことで、今は手を打ちませんか。…あなたたちがすべての真相を語ってくれらなら、別かもしれませんが」
一方、キョンはありふれたラブコメ的なシチュエーションにはこう突っ込む。
「あえて言おう。沸き上がる感情を押し殺して、深く考えないことにしたい。我々の予想範囲内で動く登場人物に、人間的なリアリティなどあるわけがないからだ」
これは自主映画のキャラクターだけでなく、ハルヒが物語世界の中で創造した人物たち、さらに小説/アニメという虚構の物語を指すメタ視点を持つ。
「朝比奈ミクルの冒険 Episode  00」は、『涼宮ハルヒの溜息』という自主映画制作エピソードのいわば成果物で、第2期では5エピソードかけて本筋が展開された後、放映された。こちらのほうが明らかに親切ではある。
他にも、2話連続エピソードの「孤島症候群」は夏の孤島でのリゾートが殺人事件に急展する物語だが、第1期ではそのあいだに「ミステリックサイン」が挿入され、話の流れを見事に断ち切っている。この構想は、企画制作会議のさい、原作者の谷川流本人が提案したことから発している。
これから時系列がゴチャゴチャになるのに第1話をマトモにしても、これはかえって不親切だろうと。最初から''メチャクチャになる''といたいことを明示しておいた方がいいなと、少なくとも僕は考えました。谷川流コメント『オフィシャルファンクラブ 涼宮ハルヒの公式』角川書店
もともと、原作者は時間改変を扱う小説らしく、時系列で執筆されたわけではない。作品世界の時間軸とは別のところに、物事の原因と結果がある側面もある。さらに、アニメは作中で示される時間概念とも深く関わっている。
朝比奈「時間は連続性のある流れのようなものではなく、その時間ごとのもの。アニメーションを想像してみて。あれってまるで動いているように見えるけど、本来は時間と時間との間に断絶があるの。それは限りなくゼロに近い断絶だけど。だから時間移動は積み重なった時間平面を三次元方向に移動すること。未来から来た私は、この時代の時間平面上ではぱらぱらマンガの途中に描かれた余計な絵みたいなもの」 第三話
ここでは時間の連続性は否定される。時間が不連続であるなら、シャッフルのように(一見だが)不規則に並べてもいい。第1期のコンセプトはここにあるのだろう。また長門有希の行動が示すように作品中の世界とは情報環境と同義であり、彼女は情報改変によって世界の再創造もできる存在だ。いわば情報としてのデータベースをシャッフルしたのが第1期『ハルヒ』とも言える。
レフ・マノヴィッチは、映画をナラティヴとデータベースのふたつの要素から構成されていると指摘した。『ハルヒ』第1期とは映画の持つデータベース的要素(情報性)を最大限活かしたものである。そこには時間軸に沿ったナラティヴはないが、意味は確かにある。
キョンとハルヒの合わせ鏡の構造が示すように、世界は解釈し、読み込まれ、意味を与えられる巨大な「テクスト」(データベース)である。『涼宮ハルヒの憂鬱』の世界とはそのような意味を豊富に湛えた存在、重層体でもある。それは自明のものではなく、読み込みという働きかけを必要とする。
本作は時系列に添ったナラティヴではないが、時系列に錯綜した中、叙述というナラティヴのかたちでキョンに語られていく。それは、現代における情報が過剰であるがゆうの進退自由の「永遠の現在」への意味の付与である。
時間平面は蓄層され、あらかじめ決定されているかに見えるが、意志を持つ人間である限り、現在と未来を改変する力を発揮する。それは超常能力ではなく、むしろ平凡人であるがゆえのキョンの行動だ。
「我々の予想範囲内で動く登場人物に、人間的なリアリティなどあるわけがない」
本作は記号化されたキャラクターで満ち満ちているが、「自由意志」が大きな意味を持ち、物語を動かしていく。キャラクターに「人間的なリアリティ」を与えるものとは、意志を持って何か(本作では意味の欠如)に抗おうとする、振る舞いであると思う。

「楽器の王」オルガンとモーツァルト

1999年8月27日、大阪いずみホールでは、年二回の「パイプオルガン・シリーズ」の一環として「美しきモーツァルト」というコンサートが開かれた。モーツァルトのオルガン曲のみを特集する企画で、出演者は井上圭子さんであった。 モーツァルトのオルガン曲のみによるコンサートはめずらしく、...